top of page

短編小説

『第三の土地、

モデルルームを仮設する』

■第1回

「風景のありか」は風景と土地をテーマに制作をする四人の美術家による一度きりの企画展示の実現を目指して結成された。

石原七生は相模原の上空を飛ぶ米軍機を出身地・東京都品川区の上空を飛ぶ羽田からの旅客機と重ね合わせる。
生まれ育った品川でも、進学した羽田空港の近くの高校でも上空では日常風景として飛行機が飛んでいた。
多摩川が東京湾へと流れ込む大井埠頭あたりの運河は飛行機と同じく石原の原風景だ。そのため石原の絵画には飛行機とともに海がよく出てくる。

また石原の絵画には地上と上空を結ぶ垂直線が頻出するが、それらは飛行物体をまるで犬に紐付けるリードのように土地に紐付けているようにも見える。
どんなにたくさんの鉄の塊を操っても土から離れては生きられない、と画中の豪快な女性たちに言われているようだ。

石原の絵画のほとんどには、漫画やアニメのキャラクターのように基本的に線描で描かれた女性たちがいる。
そんな女性たちは観者の視線に媚びていないように見える。それは一昔前の「ヤマンバ」メイクのギャルのように男性の欲望の視線を拒否しているという意味ではない。
石原の描く女性たちはまったくもって率直であり健全な自然体だ。
それは意訳すればサンドロ・ボッティチェリが描いたような自然現象の具現化としての女性像のような、つまり風景の一部としても解釈できるのではないか。

■第2回

上野和也はその人生において自らが移り住んできた土地への愛憎を、毎週欠かさず買い続けている雑誌『週刊少年ジャンプ』を物差しとして冷静に測定しつづけている。
上野はほとんど彼の顔面の一部となっている黒縁眼鏡だけでなく『ジャンプ』越しにも風景を見ているわけだ。

里帰りしたときも『ジャンプ』の定期購読は当然のように死守される。
上野は自宅の本棚に刊行号数順で並べられている『ジャンプ』の中の歯が抜けたように欠けている部分を目にするたびに、欠けた『ジャンプ』がいるであろう遠くの故郷のことを思い出す。

そんな上野は今までに二度、引越しをする際に荷物を運び出して空っぽになった住み慣れた部屋で個展を行なっている。
単純作業によって発生する手癖を樹脂粘土に定着・具現化した立体作品を自宅に展示したのだ。
この個展も上野にとって故郷でもなく、首都でもなくなんら特別ではない、ごくありふれた場所だが生活を営んできたため愛憎が生まれた土地への測定行為のひとつだろう。

上野は『ジャンプ』という雑誌や、自宅展示という方法で土地との距離を測る。
のちに「風景のありか」の重要なテーマとして浮上する「作品と生活の融合地点の再提案」も上野によって持ちかけられた。

■第3回

加藤真史にとって風景と土地はグーグルマップに上空からの視点で表示されるログのようなものだ。情報でしかないので故郷の風景も見知らぬ土地の風景もある意味同じだ。
加藤の当たり障りのない土地を描いた風景画は、バラバラに切り刻まれている。しかし細部をよく見ると偏執的に細密に描きこまれている。
そのように慢性の腱鞘炎になるほど身体を酷使して描くことで、当たり障りのない入れ替え可能な風景を自分に強引に引き寄せているように見える。
しかし同時に抽象的なパターンにまで還元された断片の集合体である風景を、自分から突き放しているようにも見える

加藤はほぼ必ず画像を紙に出力してそれを見ながら制作をする。風景が土地の固有性を剥ぎ取られ際限なく均質化されていく様子を、紙という物質を用いて断片に還元する手法で伝えている。
そのことから加藤はARやVR、スマホのカメラなどの装置への目配せをしつつも、基本はやや旧世代の(スマホ黎明期であるゼロ年代半ばの)視点を足場にしているといえる。

ただ加藤は風景画のモチーフを、都市の中の人間の領域と自然の領域の境目となる場所を基準に選んでいるという。
それはいうなれば、温暖化やプラスチック海洋汚染にも通じる人間と自然のせめぎ合いというマクロな視点を含んでいるとも解釈できる。

 

■第4回

「風景のありか」を立ち上げた村上佳苗は愛媛県大三島で生まれ、相模原にいても埼玉にいても自らの一部を島に置いてきている。それは記憶のような抽象的なものも、時間やお金や集中力のような有限なものも、村上に所属するあらゆるものが含まれる。


企画の立ち上げから一年以上が過ぎたがその間、村上が島へ帰還したのは13〜14回に上る(本人も正確な数は覚えていない)。
東京都心の有名美術館主催の公募展の二次審査というこの企画にとって最も重要な日すら、前日まで島の祭りで笛を吹いており、当日早朝の電車で現地に現れた。
上野と加藤はそんな村上の島への異常な執心を、少し揶揄するようにしかし畏怖も込めて「呪いのようだ」と言う。

村上は「この島のどこかでいつかある(あった)こと・もの・ひと」の積み重なりを基に制作を行っていると言う。
つまり島という単位の共同体のたまたま現在を担った者(受け継いでいく者)としての自覚が強い。
グローバリズムを経て共同体が解体していく傾向の社会の中で、村上はまるでフィクションの中の人物が現実に現れたようだ。
それを裏付けるように近年の村上の絵画は島を上空(神の視点)から見下ろした、画中の至る所で物語が同時に展開しているような構図が目立つ。

これらをふまえると村上が思春期から現在まで半生を捧げてJロックバンドのBUMP OF CHICKENをフォローしつづけていることも、村上の作品の世界観に関連がないとは言いきれない。
「バンプ」はヴォーカルでソングライターの藤原基央による、お伽話のようなロールプレイング・ゲームのような物語を構築した楽曲を十数曲集めてアルバムの世界観に強度を持たせることが多い。
バンプのファンタジックな世界観と村上のいまや稀少であるがゆえにフィクショナルな生い立ちがシンクロするのは、あらためて考えると自然なことにも思える。
ちなみに村上がバンプの楽曲に出会ったのは14歳のとき(2001年)、大三島に初めてできたコンビニの有線で聴いた『天体観測』だった。

前近代的ともいえる濃密な共同体が機能している島に初めて入ってきた消費社会のアイコンの中でのロックスターとの出会いが、少女村上のその後の人生を変化させた。まるでセカイ系アニメのワンシーンのようだ。

■第5回

そんな四人の企画も実現は遠く、声をかけていた美術家の離反にも遭い何度も暗礁に乗り上げる。そして立ち上げから一年が過ぎようとするころ、企画は奇しくも三番目の候補地として四人にとって関係の浅からぬ土地である相模原市橋本に流れ着く。

相模原市橋本は八王子と横浜を結ぶJR横浜線上の中継地点だ。
JR横浜線は江戸時代以来の生糸の産地・八王子と主な輸出先であるヨーロッパへの玄関口・横浜を結ぶ近代日本における「絹の道」として1908年に生糸業者の出資による私鉄として敷かれた。

また相模原市橋本という土地は国道16号線と129号線がちょうど交わる場所だ。そこは「橋本五差路」という、交通量も通過時のストレスも年中とんでもなく高い交通の要衝だ。
ちなみに五差路の交通看板は、毎年秋頃開催される相模原市周辺のアーティストスタジオによる「SOS(スーパーオープンスタジオ)」のアイキャッチ画像にも使われている。

1955年に相模原市によって施工された「工場誘致条例」により市内には多くの工業団地が作られたが、そのひとつ大山工業団地(1959年造成)は橋本のど真ん中にある。

その後60〜70年代にかけ都市化が進み、多摩美術大学八王子校が開校し(1971)、東京造形大学八王子宇津貫キャンパスが開校し(1992)、ショッピングモールのアリオがオープンし(2010)、高層マンションも立ち並ぶ橋本は住工が混在している。

■第6回

展示会場となる「アートラボはしもと」は大山工業団地とアリオのすぐ側にある、元住宅展示場のモデルルームをアートスペースに改装した場所だ。アートスペースといっても中身はほとんどモデルルームのままで、ホワイトキューブとは程遠いアクの強すぎる空間だ。

そんな「アートラボはしもと」は定休日以外は17時まで地元の子供たちに解放されている。
お金がかからず、子供が飛び跳ねて動き回れる空間も備えたそこはモデルルーム(居住者の個性を排除した抽象的な空間)の皮を被った井戸端のような、駄菓子屋のような、地元の子供たちの社交場として機能している面もある。

また目と鼻の先にあるショッピングモールのアリオのフードコートも子供たちの遊び場になっている。事実村上佳苗はそこでいきなり見ず知らずの子供が隣に座ってきて、ニカッと笑いかけられたことがある。

四人は打合せやフィールドワークのため何度もアリオに訪れているが、特に土日の昼食時のアリオのフードコートは圧巻の人出だ。天井の高い広大な空間に溢れる人、物、記号、光、音、食べ物の匂い。
半径数キロメートル内の人間が皆集まってきたような空間にいると、少子高齢化などフィクションではないかと錯覚させられる。

ただサラリーマン、学生のカップル、家族連れ、地元のマイルドヤンキー、外国人労働者など多種多様な人間が集まる商業施設の一角と、元モデルルームのアートスペースでは、同じ社交場(溜まり場)でもかなり色が異なるだろう。

■番外編 蚕種石とこよみストーン

上野和也は熊本県熊本市出身だ。実家は本来の仕事の他に地元の菅原神社の氏子も務めており、祭りを仕切ったこともある。
あるとき自身の制作に関係することでその神社の氏子に関する文献を調べたことがある。
しかし本来なら客観的な情報であるべきそれらの中に、主観的と思える記述が多くあることに気付いた。

それは物語を仮構しているようであり、「まるで祭られているものが何かではなく、祈る人が何を考えているかが重要であるかのようだった」と上野は言う。
物語を仮構したいという記述者の主観と昔から受け継がれてきた伝承という情報がせめぎ合った結果いびつな形が現れているのだ。

その話を聞いた石原七生は以前フィールドワークに行った多摩美術大学八王子校近くの東京都町田市相原にある蚕種石(こたねいし)を思い出す。

蚕種石は魂の籠り場所として古くから祀られてきた丸石の道祖神だ。


「蚕種石は、八十八夜が近づくと緑色に変化し、その色を見て昔は蚕の掃立ての準備をした。こういう伝承とともに信仰されてきた。」
(畑中章宏『蚕 -絹糸を吐く虫と日本人』2015 晶文社 p.236)

1967年6月以来、相原町の屋敷内に安置されていたが、2019年1月に現在の場所に移転された。
石原が通行人に聞いたところ、移転の理由はアパートの取り壊しで、町内会によって決定されたらしい。

真新しいコンクリートのブロックの中に安置された蚕種石は、まるで西尾維新・原作のアニメ『暦物語』の「こよみストーン」のように滑稽でもあり、なんだか哀愁を感じさせもする。
こよみストーンはただの学生の工作物という実体のないものがその演出と時間の経過によって信仰の対象となってしまったという寓話であり、蚕種石とは根本的に違うものだが、なんだかこのふたつは現代の日本人の宗教観をリアルにいびつに表しているように見える。

そんな蚕種石は今も近代日本の「絹の道」であるJR横浜線の中継地・橋本から徒歩圏内の片隅に、ほとんど誰からも見向きもされずひっそりと佇んでいる。

■第7回

橋本において強烈な引力を備えた発光体のような場であるアリオのすぐ隣にあるアートラボはしもとは、灯台のふもとの暗がりのような場所だと加藤真史は言う。

JR橋本駅からアートラボはしもとへは徒歩で10〜15分ほどだ。ただそこへ行くためにはアリオの中を通り抜ける必要がある。
「小さな子どものいる家族や高齢者にも優しい公共空間」で「政治や文化や宗教や階層が異なっても、誰もが同質のサービスを受けられる理想の街」(※)を横目にたどり着くアートラボはしもとは、辺境の土地のようだと加藤は他の三人のメンバーに言う。
橋本駅からまぶしい理想郷を通り抜け、辺境にたどり着く約15分の行程は、自分たちの企画の約一年の行程の縮図だと。

決してシニシズムと自虐性からディスっているわけではなく、そんな場所だからこそ現在の風景のありかの四人にとってベストの場所ではないかと、もし半年ズレていたら叶わなかったある意味ベスト・マッチングなのではないかと考える。

事実アートラボはしもとは今年度いっぱいでアートスペースとしての役割も終えて取り壊しになることが決定している。

モデルルームが、
アートスペースとなり、
さらに共同体の社交場のような場所にもなり、
近い将来更地となる。

風景のありかの企画は一年以上漂流し、その結果第三の候補地として、ギリギリでアートラボはしもとの第三形態に間に合ったわけだ。

※東浩紀・大山顕『ショッピングモールから考える』2016 幻冬舎新書 裏表紙より

■第8回

村上佳苗はアートラボはしもとの内装を見るといつも祖母の家の居間の風景を思い出す。
そこでは観光地のみやげものや、素朴な絵画や、昔のチラシや、広げられた手ぬぐいがせめぎ合うように、お互いを潰し合うように混在している。

村上はアートラボはしもとの第三形態としての現状を知ったとき、この企画のキービジュアルはこの祖母の家の居間の風景だと直感した。

一年以上関係性の履歴を積み重ねて、コンセプトの削除・増改築を繰り返しこじらせてきた「風景のありか」という共同体を漂着させるのは、このモデルルームの皮を被った社交場であるアートラボはしもとしかないと考える。

そんなアートラボはしもとというフレームの中に四人のピース(作品)をはめこむことで、村上の祖母の家の居間のような「占有と共有のせめぎ合い」を起こし、
ひいては共同体の中での共存風景のいびつな縮図としてのモデルルームを仮設することができるのではないかと四人は画策する。

そしてそのいびつさこそ私たち四人そのものではないかと。

■第9回

石原七生は橋本を指して「最果て(成れの果て)感がある」と、自らを含めた美術大学卒の四人を重ね合わせながら悪意なく呟く。
出身地である品川にほど近い、大森や蒲田の風景の端々から染み出してくるアジアン・スラム感や羽田の埋立地スラム感とも、表面的には異なるが本質的には共通する「最果て感」を嗅ぎとる。

「羽田は京急線と環八と産業道路、首都高に挟まれて非常に埃っぽい治安がイマイチなところ。多摩川の向こう岸は川崎国。」
このように東京で生まれ育った石原は実感を込めて言う。
そして石原にとって同じ「最果て」でも、京浜工業地帯の東端の羽田とほぼ西端の橋本(真の西端は八王子)は、海の民と山の民ほどに異なるのだ。

石原の言う「最果て」へと向かっていた風景のありかの四人の今までの彷徨は、ものすごく脚色すればジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』で引用したジョセフ・キャンベルの英雄神話の「出立」→「イニシエーション」→「帰還」の構造で解釈できなくもない。
しかしその解釈を当てはめると橋本はやはりルーク・スカイウォーカーが育った惑星タトゥイーンのような「辺境」だ。

ただし風景のありかにはマスター・ヨーダによる薫陶や、デス・スターの撃墜のようなハイライトやカタルシスはなく、首都・東京で一年間で二度企画が撃沈され辺境・橋本に帰還(退却)したという事実だけがある。
しかし舞い戻った辺境で四人はそれまでは気づかなかった辺境の一面を発見したのだ。

昔話や神話のクリシェとして「イニシエーション」を経て「帰還」した者(たち)は、
なんらかの欠如を埋めたり(ありふれた日常の貴重さを知るなど)、

別の何物かになったりする(民俗儀礼的な成年式を経て子供から大人になるなど)。

四人に一体どのような変化があったのかは、
最果てであり辺境の地・橋本で2019年9月半ばのたった8日間という展示期間中に喪失の予感を孕みながら幽霊のように立ち現れるだろう。

■第10回(最終回)

四人は展示会場となる「アートラボはしもと」二階の奥まった場所にあるモデルルームだった部屋に足を踏み入れた。
アートスペースや子供たちの社交場として機能している一階部分とちがい二階部分は物置のように雑然としている。
やや淀んだ空気が鼻につく。室内は所々ほこりが積もっているようだが薄暗くて細部が見えない。室内を確認しようと照明のスイッチを押すが反応がない。どうやらコンセントの方にも電気が来ていないようだ。ライティングが出来なければこの展示はそもそも成立しない。一瞬、絶望的な気分になる。

しかしそもそもモデルルームは住人の個性が入り込む余地のない、ある種の普遍的な理想や夢を具現化した空間のはずだ。そうでなけれなモデルルームはモデルルームたりえない。
ならばいま目の前にある理想の具現化を放棄したモデルルームは一体何なのだろうか。理想の部屋なのに理想の部屋の機能を喪っている。まるで「部屋の幽霊」とでもいうような実体のない場所だ。

エドワード・ホッパーがモチーフにした家具のないからっぽの部屋とも、19世紀ロマン主義の画家たちがモチーフにした古代の都市の廃墟ともちがう。
本来の目的で機能した部屋でも、そこから目的が変化した上で機能した部屋でもない、部屋であることをやめた宙ぶらりんの部屋。第三の部屋。

今回の展示は風景のありかの四人にとって全く初めての試みと言ってよい。
当然現実はジョセフ・キャンベルが収集した古今の英雄神話とは別物であり、漂着した辺境・橋本で近い将来展示そのものの瓦解というさらなる悲劇が待っているかもしれない。
あたかもジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』のラストシーンで元「理想郷」であり生存者たちの居住空間となっていたショッピングモールがゾンビの群れに蹂躙されるように。

だが少なくとも結果はまだ出ていない。
元モデルルームという舞台上で一年以上にわたる専有と共有のせめぎ合いに終止符を打つのだ。

風景のありかは四人の美術家がそれぞれ通過してきた土地で採取した風景の断片を、
一年以上の時間を経て第三の土地・橋本に集約し、
近い将来喪われる共同体の器としての場所で、
モデルルームを仮設する!

蚕種石.jpg
こよみストーン.jpg
IMG_5463.JPG
短編第10回挿絵2.jpg
短編第10回挿絵1.jpg
短編第10回挿絵3.jpg
橋本夜景10.jpg
bottom of page